go to ...ライブラリー,自発的な学びのために

第一章 自由とわがまま

三節 湘南小学校


 一九九七年十月に現役の教師たちが発起人になって「湘南に新しい公立学校を創り出す会(略称・創る会)」が発足しました。
 現在の公立学校教育がかかえている諸問題を解決するために自分たちに何ができるかという思いで立ち上げた団体です。当初は「なぜ今の学校を改革するという方法ではなく、新しい学校を創るという方法を選ぶのか」という質問を多く受けました。もちろん、今の学校で改革できることはたくさんあります。しかし、わたしが創る会で理想とした学びは今の学校では実現できない内容を含んでいました。


 子どもの学びは年齢によって区切った集団で行われるよりも、年齢枠をはずした環境で行う方が効果的ではないかという考えから打ち出した「無学年制」もその一つです。
 学ぶことが教師によって決められている授業よりも、子どもの興味や関心を大事にした自発的な学びの方が「なんのために学ぶのか」という本質的な問題を子どもがたえず意識し続けることができるのでないかという考えがベースになっている「学習内容は子どもが決める」も同じです。
 さらに特色ある学校教育を実現するには、教師だけでなく子どもや保護者も学校づくりに参加して、ともに理想の実現へ向けて歩み出せるようにするための「学校選択制」もそうです。


 ここに掲げた三つの考えだけでも、今の学校ではなかなか実現しきれないものばかりです。
 ならば、新しいタイプの学校を創り出すしかないという結論に達したのです。
 創る会に集まったメンバーがそれぞれの心の中にあった理想の学校について検討しあいながら仮想世界で完成させたものが「湘南小学校」です。


 コンセプト、理想とする子ども像、校内組織、年間計画など、大綱的なアイデアを共有するために一年間を要して完成させたのが「湘南小学校の四季」でした。「湘南小学校の四季」はその後創る会のことに興味を持たれた方々にわたしたちの考えを説明するときに大きな役割を果たしました。そこには入学から卒業に関する規定や教科書の扱いまで細かく規定してあったため、具体的な疑問をお持ちの方々の理解を深めるのに役立ちました。


 「湘南小学校の四季」の完成とあわせ、創る会では実際に子どもたちを集めたサマースクールを実施しました。自分たちの仮想世界が現実にはどのように展開されるのかという確認の意味がありました。そこでは多くの自信をわたしたちはつかむこととなるのですが、同時に実際の子どもたちの活動を目の当たりにして、新しい課題も発見することとなりました。具体的には子どもの学びの様子やそれに対応するスタッフのあり方、自分で計画を立てることとはどういうことかなど、制度や組織といった仕組み的な事柄よりも、学びのあり方や支援のあり方という本質的な課題が見えてきたのです。これらを確認しあうために「湘南小学校での学び」という考察を作成しました。さらに二回目のサマースクールを通じて、より本質に迫る課題が見えてきました。子どもの活動に対する支援のあり方で共有しておいた方がいい部分、学びの様子から何を成長ととらえそれらをどのように評価していくのかなどがそれにあたります。そこまで課題が究められていくと、ただの考察ではなく理論として確立するべき段階に入ったのではないかという思いで「自発的な学びのために」の執筆と検討が行われています。


 「湘南小学校の四季」「湘南小学校での学び」「自発的な学びのために」の三つの考察はどれも独立したものではなく、相互に関連した内容を多く含んでいます。それらを整理統合して湘南小学校の全体像を浮かび上がらせる試みとして本書があります。


 これらはいずれも活動の成果と課題を洗い出していく中から導き出されたものばかりです。だからあくまでも仮想の世界の話ではありますが、少しずつ創る会のメンバーの頭の中に「湘南小学校」が建設されていったのではないかとわたしは思っています。


 湘南小学校については他の項にも述べられているので、ここでは「自由とわがまま」をどう区別していくかについて考えます。


 湘南小学校に入学した子どもたちはまず自分の力でどのような学びをしようかという計画を立てます。そのためにだいたい一週間ぐらいの時間を用意しようと思っています。
 なかなか自分の力で考えられない子どもには教師がアドバイスを与えるのはもちろんのことですが、大事なのはそのアドバイスによって子どもが委縮しないように心がけることです。子どもと教師との関係の取り方によってアドバイスを拒んでしまうと「怒られる」「不愉快な顔をされる」「長期的に不親切にされる」などの心配が子どもの心をよぎらないように工夫する必要があるでしょう。そういった問題をクリアーするには教師側も得意な領域を事前に示しておくことが有効になるかもしれません。おぼろげに何かを考えている子どもにはそのジャンルに関する適切なアドバイスをもらえる存在として教師がいれば計画を立てていくときにむしろ頼りにされるかもしれません。また何を尋ねられても多様な引き出しを提供できる教師も必要かもしれません。それは逆に教師に限る必要はなくそういうことを積極的に希望する湘南小学校協力者を募って計画立ての期間にお願いすることも可能だと思います。また教師の専門性を越えたジャンルの多様な協力者をリストアップしておいて子どもたちに分かる方法で提示するのも有効でしょう。くわえて、計画立てをサポートするような資料を充実させておくことも必要だと思います。資料とは単なるテキストに限らず、映像やCDやインターネット情報も含まれます。


 はじめに考えたことを簡単にメモしたものを、少しずつ肉付けし、それらを時間の経過とともに確かめることができるようなファイルも、おそらく子どもの成長を子ども自らとかかわった教師相互が確かめるのに役立つことと思います。またそのファイルは学びの過程や成果の披露などでも逐次必要になってくるでしょう。


 一週間の計画立ての期間には教師側の支援とともに、教師自らが自分には何ができるのかということをアピールすることも必要です。そこには、先述したような得意領域の提示から、トラブルの解決に当たるといった日常生活に関するものまでを含みます。


 計画立ての期間は一週間ですが、そこには時間差が当然のこととして生まれます。
 そんなときは早く計画立てした子どもは、支援する人たちが十分に対応できないことを覚悟で学びを開始することもできます。また計画立て期間が終わるまで自分なりに準備をしたり、まったく別のことをやることもできます。「それでは早く計画してあまった時間で遊ぶために適当な計画になってしまうのではないか」という危惧もありますが、「適当な計画」かどうかは計画ができあがってみなければ何とも言えないことであり、やってみる前から心配することではないのではないかとわたしは思います。
 反対になかなか計画ができず、一週間が終わろうとしていても具体的な内容が見えてこない子どもに対してはどうするべきか議論が必要です。おそらく共通するルールは作りにくいと思います。なぜなら、個別な子どもの姿がない中で統一のやり方をあらかじめ決めておくのは現実にあわない可能性があるからです。しかし教師たちがそういった子どもと接する共通の認識として、その子どもの自発性を高めるにはもっとも良い方法は何かということを考えることは必要でしょう。特定の教師の感性で決めずに複数のメンバーによる合議も重要になってくるでしょう。いくつかのプロジェクトを教師側が用意しておき、なかなか計画が決まらない子どもはタイムリミットまでにその中から必ず選択するという方法もあります。課題は用意されたものであっても、そのことが結果的に本人の興味を深く喚起することだって考えられるからです。また学びの実行期間に入っても計画立てを保証する人材を確保しておいて、そういった子どもを焦らせることなく計画づくりを支援する方法もあります。その子どもにとっては学びの計画を立てるという行為そのものが長い目で見て「学びの実行」になっていくととらえることも可能だからです。


 具体的に学びの計画段階でどのような問題が予想されるかについては二章で考えることにしてここでは話を進めます。


 子どもたちが自分たちの学びを計画してそれを実行にうつす「学びの実行期間」は年間を通して配置しています。年度始めはなるべく早い段階で「計画」「実行」「成果の披露」という流れを子どもたちが経験した方が、長期期に役立つのではないかと考え短期間に設定してあります。短期間といっても初期の学びの実行期間はおよそ一ヶ月あります。


 湘南小学校を「自由とわがまま」という視点からとらえたとき、学びの計画や学びの実行には子どもが自らの内なる欲求に対して積極的であるという前提が貫かれていなければならないと思います。あまり意欲的でもないのに仕方なくやる課題に対して、子どもたちはおそらく大きな成果をあげないでしょう。それは単純に自分で決めたことだから積極的になるという図式のものではありません。やってはみたけれど予想に反して興味が半減する内容だったということもありえるでしょう。また実行のためにはそれ相当のベースとなる知識の記憶や応用が必要だったことに気づき、やる気をなくしてしまう場合も考えられます。


 学びの自由を貫くことができるようにするには、初期段階で「つまずきもありえる」「修正もありえる」「それがあなたなのだから」という全面的な承認を教師や親が与えることが重要になってくるでしょう。その過程を経て、「それではどうするのか」を考えられるようにアドバイスしていかないと、試行錯誤をおそれて消極的な行動しか子どもは示さなくなるのではないかと思います。


 つまり子どもをわがままに走らせないためには、その子どもに対して十分な承認と適切な成長へのアドバイスが不可欠なのです。そんなとき、学びのアイデアメモや調べたことの記録などは本人の歩みを再確認し、再出発するための貴重な評価記録となることでしょう。


 何を学ぶかを子ども自身が決めるとき、そもそも学びとは何かを子どもが分かっている必要があるかどうかは議論を必要とするでしょう。なぜなら、学びと遊びの区別がない場合や学びそのものを理解していないとき、子どもは自らのそれまでの経験の中からしかアイデアを出せないかもしれないからです。ただし、逆のこととして「学びとは○○だ」とあらかじめ子どもたちに言語で伝えておくことは本当に学びについて子どもが分かったことになるのかという疑問もあります。体験を伴わない言語は思考の中に記号としては届きますが、定着はしにくいものです。
 これは学びであり、これは遊びであると子ども自身が区別することは、学びを特別視していることであり、生き方に連なる学びを展開したい湘南小学校の考えからは外れることになるのではないかとわたしは思います。


 ただしこの考えでは「字を覚えたり、計算をしたりする能力を子どもはどうやってつけるのか」という質問には答えたことになりません。ひらがなや漢字などの習得を希望しなかった子どもはもしかしたら小学校生活で自分の名前や多少の言語しか使えないかもしれないからです。このことは計算にもあてはまります。


 現在の公立小学校では一年生ですべての音に対応するひらがなとカタカナ、そして少しの漢字を教えています。すべての音に対応するとは、単純に五十音を修得するのではなく「シュ」という音には「し」と「ゅ」というひらがなを使うことまで知るということを指しています。これに加え、文節ごとの読み方や助詞の使い方、接続詞の意味なども教えられます。教えられたことは、すべて理解したことになったかというと能力差がある限り言い切れないことではあります。
 しかし少なくとも「やらなかった」子どもに比べれば多少なりとも本は読めるようになるでしょうし、文も書けるようにもなるでしょう。そういったリスクと思えることまで背負い込んでなおかつ「学習内容を子ども自信が決める」方法を湘南小学校が選択し続ける根拠は何でしょうか。


 学びの計画を立てるといっても、字を知らない子どもにはメモを書くことができず教師が聞き取ったとします。聞き取ったとしても、そこに書いてある字を子どもが知らなければそのメモを子どもが読むことができずメモは子どもが自分で活用する材料にはならないでしょう。
 だから週の中に最低限の言語の時間や計算の時間をもうけて、従来の学校のように教師が教えたり、テキストによる個別学習をするという考えもあります。
 同時に「それでは子どもは自らの必要に応じた言語の習得や計算力の獲得をするのではなくなり、単なる記憶、単なる反復になり、自発的な学びの方向性と矛盾する」という考えもあります。
 「創る会の新しい学校のあり方には共感するが、それは高校から開校するべきではないか」という意見には、このことが強く意識されていると思われます。


 そこで言語や計算などという大くくり的なものの言い方ではなくもう少していねいにこれらを考えます。
 言語の習得は最初は音声からです。耳に入る言語が言葉となって口から出てきます。口から出た音のうち、相手に意味内容が伝わる音が音声言語です。うまく言語化されない段階では「あーあー」と言ったり「めーめー」と言ったりしますが、そのことで「おなかがすいた」「うんちが出た」と親が理解できるのは子どもの表情やそれまでの経験に裏打ちされたもので、正確には一般的に通用する音声言語ではありえません。
 親が子どもに絵本の読み聞かせをするとき、そこに「おじいさん」と書いてあったとしても音声では「オジーサン」と発音すると思います。耳から入る言語は意味を伝えることはできますが、文字を伝えることにはなっていない場合があるのです。「文字とは紙についたインクのしみだ」と聞いたことがあります。そこに記されている文字が読み手に伝わらないものである限り、これらはインクのしみでしかないわけです。
 現在の小学校ではこういった言語にかかわる学習はおもに「文字言語」を中心として行われています。「コーテー」を「こうてい」と書かせ、「タイク」を「たいいく」と教えます。そして「メーメー」という音は「めえめえ」とは書かずに「メーメー」と書くようにとカタカナの性格を教え、習った漢字は適宜使うようにと指導していきます。文字言語の習得には相当な能力が要求されると思われるのですが、そこに意味言語が登場して「習った字は使えることが前提」という約束の前に複雑な説明文などがテキストとなっています。意味言語とは「言葉の意味」と言われるもので、辞書を引かなければ分かりません。こういった言語にかかわる学習は子どもたちの多くが漢字テストを心底いやがるように、苦痛と苦労の積み重ねの上に成り立っています。それでも身につけた能力で、その後に役立っている子どももいるので、このやり方は決して単純に否定してしまっていいものではないでしょう。
 湘南小学校で課題となってくるのは、言語能力が求められる局面で子どもたちがどのようにその問題をクリアーするべきかということです。
 ある程度の文字言語を知っている子どもには辞書がすぐに手に取れる環境を設定しておけばつまずいたときに自分で解決することもできるかもしれません。しかし、小学校入学間もない子どもたちにはどうしたらいいのでしょうか。
 わたしは当初は学びの計画に類似する言語だけを集めたオリジナルワークブックを作成して、達成感が得られるように提供することが必要かもしれないと思っています。当然、学びの計画によって用意する言語は変わってくるので子どもによって別々のワークブックが必要になってきます。かなり労力のいる作業になるので、教師によって果たして持続的な取り組みになるかどうかは分かりません。
 それから文字言語の理解には音声言語の経験がじゅうぶんに必要だとも思うので、まだ文字言語を知らない子どもたちには計画づくりやその実行段階でたくさん「話す」経験を積んでもらうことも文字言語の獲得へ向けて有効な方法かもしれません。
 学びの計画段階で、興味あることを課題に設定した子どもたちは、そのことに連なる未知なるものへの抵抗がそれほどないのではないかとも思います。実際、マンガを読む子どもたちは知っている字も知らない字も関係なく吹き出しに目を通し、テレビゲームの解説書は文字が多くてもそこから意味内容を把握しようと試みています。
 ただしいずれの場合をとっても学習指導要領に載っている小学生に指導すべき漢字などをすべて一律に子どもたちが「習う」ことはないというのは避けられない事実です。このことは特別認可の範囲内に許容してもらうことになれば別ですが、「卒業までに必ず教えるように」という条件が加味された場合はそれに従うしかないのが実状です。


 計算能力については、「量」「数」「図」「計算」という数学的思考を分類した方法が現在の学校では採用されていますが、いずれも内容が多方面にわたっていて、どれかを省略してどれかを拡張するという単純なものではありません。また数学的思考をそもそも成立させている前提に四則演算ができることというのがあり、言語を扱うように計算ができないと数学の扉を開くことすらできないのも事実です。
 ただし計算は日常生活に素材が多い領域なので「買い物」「乗り物」「体格」など、子どもの計画と重なる部分に計算を必要とする場面が多く存在するとも考えられます。計画の中に必要な品物を購入するステップがあったとしたら、このときとばかりにお金を教材にして足し算や引き算の基礎を指導することも可能です。乗り物に乗って出かけるステップがあった場合は時刻や時間についての知識を得るチャンスになると考えることも可能です。この場合のステップとは何かをしたいという学びの計画を成立させるための一つ一つの段階のことを指しています。


 このように、自分で計画したことを学ぶやり方でも言葉や計算を力にすることは不可能ではありません。不可能ではありませんが、内容量として現在の学校で扱っているものと同等にはならないことは考えられます。
 こうなると、自発的な学びを保証するためには、従来の公立学校で教えなければならない学習指導要領に網羅されているすべての学習内容はとても「教えきれない」ことが分かります。


 湘南小学校は教育課程において日本中のどこの学校でも認められていない特別認可を求める学校です。それは学年をなくすことや学級という学習単位をくずすという枠組み的なことだけでなく、子どもたちの学習内容そのそものについても特別認可を得る必要があることを意味します。
 もしもアメリカのチャータースクールのように、契約を結んだ自治体などが学校教育内容に介入しないという特別認可制度が日本国内で始まり、多くの学校がその趣旨に則って開校するような時代になったら、湘南小学校もその一つとして決して学習指導要領の内容をすべて扱うわけではないという「特徴」は社会的に認められる状況になるでしょう。あちらには演劇教育を中心とする学校、こちらには文学を中心とする学校などという具合に、いくつもの特色ある学校が開校すれば、すべての教科や領域を必ず履修しなければならない従来の学校とのバランスのとれた対比が強調されるのではないかと思うのです。
 「子ども自身が学習計画を立てるとしたら字を書く能力や計算をする能力はどうやってつけるのか」と考える人たちは、「一律に文字や計算を教えられることを中心とする教育では子どもに本当の力がつかない」と考える人たちと、言い争うことなくわが子にあった学校を選べるようになります。どちらが優れているかという対比はあまり意味がなく、そこにはどちらもそれぞれの子どもにとってもっともふさわしい、自分を生かすことのできる学習環境が提供されたという充足感が満ちるのではないでしょうか。


 ただし現段階では「新しいタイプの学校」に多様化された具体的なイメージがあまりなく、その中で創る会の湘南小学校構想が一人歩きをしてしまっているのかもしれません。このことはとても残念なことで、多くの人たちが異なった「善意」と「価値観」を湘南小学校の中に期待してしまうという現象となりがちなのです。


 多くの人たちがいだいている「子どもは多くの事柄を経験する中から自分の興味や関心にあった対象を選択し、それを応用したり発展させたりして成長していく」という考えは近代学校教育制度ができあがってから広まった考えだと思います。なぜなら、それまでの子どもたちは特定の学習機関がない暮らしの中で親や専門職の見習いとして成長していったからです。そこには自分のやっていることと結びつかないと思われるようなことはやる必要もなかったし、やる気も起こらなかったのではないかと思われます。
 そういった時代を懐かしむのではなく、近代学校教育制度ができあがってわずか数十年の間に広まった教育観を絶対視する考えを疑ってみてはどうかと思っているのです。時代とともに価値観や経済生活が変化していく人々の歴史においては、教育観もそれにともなって変化していくのは当然のことであり、これまで正しいと思ってきたことや大人の人たちが実際に経験してきたことに対して、柔軟な思考でもってとらえ直しをしてみてもいいのではないでしょうか。


 学校に行かない子どもたちの増加や、個人を自殺にまで追い込むいじめの深刻さ、高校や大学に進学しても中途退学してしまう若者の増加は、今の時代が子どもたちや若者たちに突きつけているものと、学校で行われていることとのギャップの大きさを象徴していると考えることはできないでしょうか。
 もはや「将来のことは大きくなってから考えれば良い」というモラトリアムのような学校時代を子どもたちの中に敏感に拒否し始める者が登場するようになったと考えることはできないでしょうか。


 そんな時代の始まりに、わたしは「何をするかを子ども自身が考え」「年齢に関係のない学びの展開」という湘南小学校の考えは受け入れられると確信しています。
 確信というと強い表現になりますが、学校現場で教師としてこれまで数百人の子どもたちやその倍に当たる保護者たちに出会ってきた経験がわたしにそのように言わせているのです。
 授業によって学力を身につけ成長していく子どものかたわらで、少数ではありますが、集団での一律行動が苦手だったり、興味や関心を課題に対してあまりいだけなかったりするだけで、周囲の子どもや大人から差別化されて苦悩する親子に対して、わたしはこれ以上の悲しい思いをさせたくないのです。またそういった子どもたちに対して評価をつける段階で負の評価をつけざるをえない矛盾で自分自身が押しつぶされてしまいそうなのです。


 湘南小学校では「学びの実行期間」の後に「プレゼンテーション」という成果の発表を行います。
 それまでの自分の学びや、学んだことによって得られた力などを、子どもや教師などの前で発表するのです。発表の方法は口頭やポスター形式、ビデオ記録などさまざまに考えられます。
 そうやって自分には何ができて、どんな歩みをしてきたのかということを子ども自身が、自分の五感のすべてを使って振り返り、披露し、他者の言葉に耳を傾けることができたら、自発的な学びは継続的なものへと発展していくことでしょう。


 成果の発表というと、良いことばかりをつないだような発表も含まれるかもしれません。しかし発表を通して、質問や意見を受け付けていく過程を経験することによって、子どもたちは「次はどうしようか」「今回のまずかったところは何だったのか」という自分への問いかけが素直にできるようになるのではないでしょうか。
 だれかが一方的に判断する学習評価は、評価される子どもたちに誤解と不満を与えることがあります。これでは評価の意味がなく、評価された子どもの明日へとつながる励ましにはなりえません。


 また漢字をいくつ書けるようになったとか、どんな計算ができるようになったという、能力を数値化した評価は、学びへの意欲を高得点志向へと導いてしまう危険性があります。


 この子どもは「川」という字と「河」という字が書けるようになった。なぜなら、○○川について調べようと思ったからだ。調べるのに図鑑や地図を使わなければならなかった。そのときに字を知る必要が生じ、「カワ」には「川」と書くときと「河」と書くときがあることを知った。だから「川」と「河」という字が書けるようになった。


 このような支援者による評価が子どものプレゼンテーションを通して、あるいは学びの過程でのメモや計画表などの記録などから見えてくることが、ひとりの子どもを総合的に評価していくことにつながるのだと思います。いくつの字が書けるようになったという、「字」に限定したものの見方は子どもの一部をとらえることにすぎず、「それらの字」を学んだ必然性が浮かび上がってこないのです。


 プレゼンテーションは分かりやすい言葉で言えば「自己評価」に近いものです。他の子どもたちや教師などに自分をアピールしていくわけですから、やっつけ仕事のような発表もあるかもしれません。
 だからこのときに教師に限らず子どもの支援にかかわり、プレゼンテーションを通して子どもの歩みを確かめようと思う人たちはいくつか気をつけなければならないことがあります。


@ 同年齢・異年齢を問わず年齢を基準にしたもののとらえをしないこと。
A それまで・そのとき・それからという時間の流れの中に子どもが存在することを忘れないまなざし。
B 発表の内容がそれっきりに完結してしまわないように、アドバイスできる勇気。
C 発表を受けながら、その子どもの学びにどれだけつきあうことができたかと自問し続ける謙虚さ。
D 発表を受け止める子どもたちが、発表する子どもとの間にともに高まっていけるような気持ちを育むこと。


 湘南小学校にはここに触れた「学習計画立て」「学びの実行」「プレゼンテーション」の他にも特徴ある活動があります。しかし、ここでは教育理論確立へ向けた「学び」に視点をあてた検証をしようと思っているので、それらは別項に預けます。


 それでは、実際に子どもたちを集めて、これらの考えを実施してみたらどうなるかということを確かめたのが、一九九九年夏の「テストマッチ」、二〇〇〇年夏の「夢の湘南小学校サマーキャンパス」という二つのサマースクールでした。


 第二章ではそのうち二〇〇〇年夏のサマースクールの様子から、具体的な検証を試みようと思います。